里帰り

38週を過ぎた。まだ生まれる気配はない。

私の実家は現居住所から車で30分ほどの距離にあり、産院は実家からのほうが近い。

ということで本当は来週から実家に帰って出産の兆候があらわれるのを待つことにしていたのだが、

夫が明日日帰りでツーリングに行くのもあって、里帰りを1週間早めることになり、今晩から実家暮らしだ。

夫としては、自分の不在時に私が一人の状態で出産の兆候があらわれるのを非常に不安視しているらしい。

心配してもらえてありがたいと思う反面、なんかこう、逃げられた感がある。

もちろん産気づいたとき連絡したら夫はすぐに駆けつけてくれるだろう。

でも、もしすぐに駆けつけられなかったら、私は夫不在のまましんどいだろう陣痛を耐えなければならない。

夫として、私たちふたりの子どもの父親として、私のしんどそうな様を見ていてほしい。子どもを産めない男性だからこそ。と思っている。

といいつつ実際出産を迎えるときは夫の存在が邪魔でしかなかったりして。

明日陣痛タクシーの予約をしておこう。

 

体外受精の記録

2015年(36歳)

10月 体外受精IVF)セミナーに参加後、同意書記入。会社に長期休養を申し出、自己都合休職(12月~2月)を取らせてもらう。

11月 採卵に向けて自己注射等開始。

12月4日 採卵1回目。6個採卵、体外受精IVF)→4個受精→1個(4AA)胚盤胞まで成長、凍結。

2016年(37歳)

1月 移植に向けて点鼻薬・貼り薬・膣剤開始。

2月15日 移植1回目。

2月26日 判定日、妊娠反応なし。

3月 仕事に復帰予定だったが、心身のバランスを崩す。心療内科へ。うつ病の診断を受け、6か月病休に入る。

4月 採卵に向けて自己注射等開始。

5月14日 採卵2回目。6個採卵、5個顕微授精(ICSI)→5個受精→3個(4AB,4BA,3BC)胚盤胞まで成長、凍結。

7月 移植に向けて点鼻薬・貼り薬・膣剤開始。

8月3日 移植2回目(4BA胚)。

8月15日 判定日、妊娠反応なし。

9月 移植に向けて貼り薬・膣剤開始。

10月 復職。

10月11日 移植3回目(4AB胚)。

10月21日 判定日、妊娠反応あり。

10月31日 胎嚢確認。

11月7日 心拍確認。

11月21日 予定日決定、母子手帳受け取り。

12月13日 不妊治療の病院を卒業。

12月20日 産科初受診。

 

治療中体調を崩すことはなかったが、とにかく精神的につらかった。高度生殖医療を受けるととにかくお金がかかる。しかもそれが妊娠という結果を必ずしももたらすわけではない。そこまでしてまで子どもがほしいのか?と何度も考えた。でも、お金のことは気にしなくていいから、頑張れるところまで頑張ろうという夫のはげましもあり、会社は休ませてもらったが治療を続けた。

一度目の妊娠判定時は、胚盤胞がひとつしかできなかったこともあり、「これがだめだったらまたイチからやり直しか・・・でもグレードもいいし、きっと妊娠できるはず!」と後から振り返ってみるとかなり妊娠を期待していた。結果、かすりもしていないことがわかり、かつ、主治医から次回採卵後は顕微授精を勧められた。採卵数は問題ないが、胚盤胞になる確率の低さが主治医は気になったそうだ。夫の精子の状態は悪くなく、顕微授精までは考えていなかったので、そこまで私の妊孕力はないのか、と最高に落ち込みワンワン泣いた。すべてが悪い方にしか考えられなかった。仕事復帰して気を紛らわせよう、と思って準備もしていたのに、ついに心身ともに限界を迎えた。

大企業の経理職という職業柄、3か月に一度繁忙期を迎え、その時期は治療どころではないなと治療当初から思っていた。だがこのままどんどん年を取り、治療もままならず、妊娠の可能性を自分でどんどん狭めていくのか・・・と思うとたまらない気持ちになった。心身の限界を迎えたのは、女性性の叫びだったのかもしれない。あるいはもっと柔軟に仕事を進めたり適当にさぼったりすることができる人間であればよかったのだが、責任を持って仕事をすることが身上なので、あまり大っぴらには言えない事情で頻繁に休んで(しかも時には突発的に)周囲に迷惑や負担をかけることが耐えられなかった。

ありがたいことに病休に入り、なにも考えずに体調を整え治療を継続することができた。この時落ち着いた状態で採卵できたことが、後々のいい結果に結びついたと思えてしかたないので、いろんなひとに迷惑と心配をかけたが、休んで本当によかったと心から思う。

復職前に産業医面談があった。大阪まで行かなければいけないうえに、初めて会う産業医がどんなひとであるかわからなかった(前にひどい心療内科医にかかったことがありトラウマ)ので、面談前は本当に憂鬱だった。しかし面談してくださった先生がほんっとーうにいい先生だった。男性医師だったため、不妊治療のことを話すのはためらいがあったが、とんちんかんな会話にもならず、かつ、上司や同僚から何の気なしにかけられた言葉があなたにはとてつもないダメージで、仕事にいけなくなったのもそれが原因のひとつでしょう、とはっきり言ってくれた。友達にはなかなか理解してもらえなかった醜い感情を受け止めてもらえたことがどれだけありがたかったか。私の心が醜くて歪んでいるからなおさら子どもはやってきてくれないんじゃないかと思って、と吐露したら「そんなことはありません」とにっこりきっぱり言ってくださった。病休前にこの先生と話ができていればよかったな、そうすればこんなにこじらせることはなかったかもと思った。産業医面談なんて今後あまり受けたくはないけど、復職前にいい先生に出会えてよかった。

3度目の妊娠判定時はまったく期待していなかった。復職し、職場異動も打診されていたので、仕事をボチボチやりながら、治療を続けよう、またしんどくなったら休めばいいや、くらいの心境に達していた。「あきらめかけていたけど妊娠した」「治療を休んだら妊娠した」とかよく言うけどぜってー信じねえからなと思っていたが、それに近いことが自分にも起きてしまいこっぱずかしかった。周囲に「思いつめたり考えすぎたりすると子どもは来てくれないよ」と何回も言われてすごく嫌で、「考えたくないけど考えちまうんだよばか!」と思っていたのだ。

とにかく私が妊娠できたのはただただ運がよかったとしか思えない。顕微授精までしておいて言うのもなんだが、いくら医療の力を借りても妊娠しないときはしないというのを思い知った。最後は神のみぞ知る領域なのだ。だから現在不妊に悩み苦しんでいるひとに言えることがあるとすれば、「妊娠しないのはあなたの努力が足らないせいじゃないよ。妊娠できたひとはたまたまそのとき運がついてただけです。ただの奇跡なのです。努力でどうにかなる世界ではないのです。周りはいろいろ言うかもしれないけれど気にしないで。あなたがやってみようと思うことだけやってください、そして治療は淡々と受けていってください」ということだけだ。

妊娠経過はとても順調だった。恐れていたつわりもほとんどなかった。おなかがすくとちょっと気持ち悪い、歯磨きのとき時々えずくくらいで済んだ。仕事から帰宅後、異常に眠かったがこれは普段からなのでつわり症状ではないかもしれない。体重の増減もあまりなく、5か月を過ぎたころに職場の同僚に妊娠報告をした際「え?どこに赤ちゃんが入っているんですか?」と言われるくらい見た目の変化がほとんどなかった。年度末の超繁忙期も家族と職場の同僚に最大限に支えてもらい、何とか乗り越えて5月から産休に入り、現在に至っている。

子宮内膜症手術と人工授精実施の記録

2013年(34歳)

11月 女性クリニックで紹介状を書いてもらい、不妊治療の専門病院を夫婦で受診。カウンセリングと各種検査が始まる。

12月 痛いと噂の卵管造影検査を受ける。検査より詰められたガーゼを抜くときのほうが痛いし気持ち悪かった。

2014年(35歳)

1月 子宮鏡検査。卵管の出口にポリープあり。日帰り手術で切除することにする。

3月 ポリープ摘出手術。ポリープは良性。

5月 子宮鏡検査。内膜が整っていることを確認する。内膜症以外には夫婦ともに問題はないとの診断を受ける。この時点で嚢胞は4×2センチに成長。手術予約を11月に入れてもらい、それまでに妊娠しなかったら手術を受ける方針にする。半年は自分でタイミング法を行う。

9月 妊娠しないため、手術に向けての準備、検査を始める。MRI初体験。

11月7日 卵巣嚢腫摘出腹腔鏡手術。右卵巣5センチ嚢胞を無事摘出。(11/6~11/11入院、11/17まで自宅療養)

12月 AMH検査。数値少し下がるが問題ないだろうとのこと。摘出後は妊娠の可能性が高まる人もいるので、4月まで自分でタイミング法を行う。

2015年(36歳)

4月 やはり妊娠しないので受診。5月から人工授精(AIH)を始める方針を固める。

5月25日 AIH1回目。

6月19日 AIH2回目。

7月15日 AIH3回目。

8月17日 AIH4回目。これまで全くかすりもしないので、体外受精IVF)を検討し始める。

10月13日 AIH5回目。妊娠する気がしないためAIHは終了。

 

35歳をすぎると妊娠する確率ががくんと下がるうえ、周囲で妊娠・出産する同年代の女性が多く、焦りがかなり増してきた。特に自分より後に結婚した職場の同僚が妊娠し、気遣いだとは思うがかなり初期に妊娠報告を受けたことがショックだった。なかなか私は妊娠しなくてと話をすると「私は排卵日付近にすごいがんばったもん」と、完全に被害妄想だが勝ち誇ったように言われ、自分の努力が足らないと言われているみたいで、そのことは後々まで引きずった。また、その同僚のフォローを上司に頼まれたことがすごく嫌だった。なんで不妊に悩む私に頼むんだという憤りと、任せてくださいとこころよく言えない自分の心の狭さに落ち込んだ。AIHで急遽仕事を休んだり遅出・早退の回数が増えたりすることもかなりストレスだった。仕事と治療の両立がとてもつらかった。

不妊治療の専門病院を受診するまでの記録

2009年(30歳)

女性クリニックで子宮頸がん検診の際、卵巣にチョコレート嚢胞があることを診断される。以降、毎年経過観察に検診を受ける(年1センチずつ大きくなった)。

2011年(32歳)

1月 夫と出会う。

2012年(33歳)

10月20日 挙式・結婚式(10/22が入籍日)

2013年(34歳)

4月 女性クリニック受診。嚢胞は3センチの大きさに。妊娠希望を伝えると、嚢胞の大きさもさほど大きくはないし、内膜症があっても妊娠する人はいるので、1年ほどはタイミング法で様子を見てはと言われる。

5月 新婚旅行(ドイツ・オーストリア

 

内膜症を抱えているし、結婚時の夫の年齢が39歳ということもあり、結婚して1年たったら不妊治療の専門病院に行って、ひととおりの検査を受けてみようと夫婦で話し合っていた。

でもまだ「まあ、そのうちできるでしょう」と余裕かましていた時期であった。

はじめに

いつまで続くかはわからないが、妊娠・出産・子育てについての記録を残していこうと思う。

現在38週、出産予定日まであと2週間。

「あと2週間」と書くより「あと14日」と書くと、さすがにいよいよだなと身がしまる思いだ。

まだまだ産まれる兆候はないので手持ち無沙汰かつ、それでもいつ出産の兆候があらわれるのかどきどきしてしかたがないので、気を紛らわしたい気持ちもある。

さて、どうなることやら。